Vol.10 アイスマン
カーヌスティはエジンバラ駅から列車で約1時間ほど北東の海岸にある。この辺りはオランダとの交易が古く、今もイギリス本土とは違ったオランダ風の建物が散見できる。
カーヌスティから西へ約15分の所には、帆船時代に賑わった海港ダンディがある。あのチャーチルが生まれた港町で、この港町はオランダとの交易港だった。
カーヌスティのリンクスは主としてダンディのゴルファーたちが、どうにもならない海岸沿いの草原に、グリーンとティグランドをつくってオープンさせたゴルフ場である。設計はアラン・ロバートソン。最初は10ホールをつくったが、そのあと1867年にトム・モリスが18ホールに拡張し、さらに改造して今日のコースになった。
コース内にはバリーバーン(クリーク)が幾重にもうねって海に注ぐ。当初はバーンの上に板をのせただけの橋をつくり、ゴルファーたちはその橋の上を行ったり来たりした。その後コンクリート技術が進むと、あちこちにコンクリートの橋が架けられ、また護岸工事も進み、今日の姿になった。
しかし、このコースの難点は、北西の風が吹くと真夏でも7−8度まで気温が下がることである。雨でも降ったら氷雨に近く、夏だというのに白い吐息がたち、両手に息を吹きかけないとグリップが緩むことになる。そんな悪天候に出会ったら、災難としかいえない。
1953年の全英オープンは、冷たい強風が吹き、各選手たちを苦しめた。なにしろ風をさえぎる樹木も家もない。選手たちの中にはお腹が冷えて体調を崩した者もいた。
この大会には、アメリカから3名が出場した。戦後の全英オープンは賞金が小さく、それにアメリカ本土での試合が多くて、スケジュールがうまく合わないことから、辞退する者が多かった。
アメリカは戦後の好況でゴルフトーナメントのスポンサーになる企業が増え、選手の多くは名誉はあっても賞金の小さい全英オープンなど行きたがらなかった。ベン・ホーガンもその一人だった。
スケジュール的にも、1953年は4月のマスターズ、6月の全米オープン、7月10日からの全英オープンと続くが、当時は飛行機での渡英である。実はホーガンは飛行機が苦手だったこともあり、イギリスでの試合には1953年の全英オープンと、10年後のカナダカップがイングランドのウェントワースで開催されたときの2回しか、イギリスに渡っていない。
アメリカの選手が全英オープンを嫌った本当の理由は、賞金がアメリカのローカル試合程度であったことのほか、「真夏の寒さ」にある。
これはアメリカ選手たちの間では悪評で、互いに「おれは行かない。お前が行け」とか「お前は全米オープンに勝ったんだから行く義務がある」などと、なすり合っていた。ベン・ホーガンが全英オープンに出場した理由も、目立ったアメリカ選手が出場しないことから、R &Aが全米オープン優勝者に出場を要請し、やむなく出かけている。
たしかに、アメリカとイギリスのゴルフ界は第二次世界大戦を界に逆転していた。本場はイギリスではなくアメリカだった。それにイギリスに出かけると、少なくともアメリカでの3試合を棒に振ることになり、大金を捨てることにもなる。
1953年7月、いやいやながら出かけたベン・ホーガンがカーヌスティの駅に着くや、冷たい風が吹いて驚く。それに空はどんよりとした雲に被われている。気が重くなった。彼はセーターや冬用のズボンなどを用意したが、やはり風には手こずった。
ホーガンはその年のマスターズ、全米オープンにも優勝していて、イギリス人の間ではフラットな美しいベン・ホーガンのスウィングを見たい者が多かった。
この日も例の白いハンチングをかぶってティグランドに立った。1番のスタートホールは正面からの風。ドロー系のボールを打つ彼としては、逆風に強いはずだったが、かぜに押されるのが心配で、スタートは2番アイアンでティショットした。
それにアメリカと違ってラフが深い。バンカーも深く、絶壁のバンカーに打ち込んだら脱出するのに3発は覚悟しないといけない。最初のティショットを終えた瞬間も、口数の少ない彼は、「早く落ちろ!」とボールに命令した。
彼はこの大会で、イギリスサイズのスモールボールを使用した。しかし、なかなか慣れずに手こずる。それでも初日は73で回る。
二日目は冷たい風が吹く。ホーガンは長袖のシャツの上にセーターを着た。「こんな真夏にセーターでゴルフをするなんて信じられん。皆なが嫌ったはずだ」と声を震わせながらのラウンド。「寒くないか?」とギャラリーに慰められたホーガンは、「地球の反対側にきたみたいだ」と聞こえよがしに言ったが、それっきり黙りこんだ。愛想のないことではアメリカ唯一のプロだが、きれいなスウィングが見たい地元のギャラリーは、なんとかして、彼を笑わせようと拍手したり声援を送る。だが彼には通用しなかった。二日目71を出してトータルスコアをイーブンパーの4位になったものの表情は暗い。
最終日は1日36ホールの決勝戦。この日も北西の冷たい風が吹く。雪でも降ってきそうな天気である。寒さが苦手なホーガンは時々、指先に暖かい息を吹きかけながら歩いた。
彼はその時、アメリカのプロ仲間たちが全英オープンに出たくない理由がわかった。コースはタフで、バンカーだらけである。それに賞金たるやアメリカの半分。
「なんというざまだ、ベン」
と自問自答しながら最後の18ホールにかけた。午後になるとさらに雲が厚くなり、風が体の中を抜けていく。17番のミドルホールでは第2打を4番ウッドでグリーンを狙ったが風に押されてバンカーにつかまる。なんとかパーに収めるものの、早く終わってくれないものかと、それのみを祈ったら、ラストの18番ではバーディを決め、68で上がって初優勝した。
嬉しいはずのホーガンに、記者たちが感想を求めた。が、無口な彼は「寒いだけ。二度ときたくない」と答えた。しかし表彰式では「また、きたい」とお世辞を言ったが、彼の表情は氷のように冷ややかなものだった。記者たちは彼の表情から、「奴はアイスマン(氷の男)」と皮肉った。
ホーガンはこの時の「寒い全英オープン」の体験から二度と出場しなかった。今でもイギリスの記者たちの間では、ホーガンには好意を持たない。

カーヌスティ18番ホールの第3打地点。ここからクリーク越えの第3打に入る。

カーヌスティG&L。過去7回、全英オープンが行われたカーナスティは、実はゴルフクラブではない。パブリックのリンクスで、プレーは直接フロントに申し込むか、周辺にあるクラブの会員になって申し込むのだが、平たく言えばゴルフ場つき遊園地といったところだ。場所はダンディ市から東へ車で15分。飛行場はないが駅が近い。歩いて2分。1999年に開催された第128回全英オープンのプレーオフで、フランスのジャン・バン・デ・ベルデが18番のバリーバーン(クリーク)にボールを入れて敗れた試合は記憶に新しい。その名物ホールの18番。クリークからフロントエッジまでのわずか5ヤードの距離が運命を分ける。